地の果てるところ・シリエトク 中篇

斜里から根北峠へ向かう途中に、越川という集落がある。

かつて、ここには鉄道の駅があった。

知床斜里から線路を分かち、峠を経て根室標津へ至る国鉄根北線。
今から考えればよくこんなところに鉄路を、というのが正直なところだが
当時は、建設するに当たり農作物輸送から対露国防までとそれなりの建設事由があった。
結局、戦時中の物資不足やその後の需要の変化で標津まで結ばれることはなく
今は畑へと還った越川駅までが開通した後、昭和45年限りで廃止となっている。

廃止から年数が経っており、痕跡は少なく越川駅跡もわからなかったが
国道脇にある第一幾品川橋梁(越川橋梁)は、沿線随一の遺構として登録有形文化財に指定されている。

常紋トンネルに代表される囚人労働は、北海道の開拓史を語る上で外せず
この橋梁も例外ではなく、タコと呼ばれた彼らの命と引き換えに造られた産物だ。

橋の袂まで登ると、根北峠へと向かって緩やかな弧を描く路盤跡が続く。
越川駅より先の未成区間は、峠あたりまで路盤が完成していたようだ。

先人たちの想いは北の大地に消えたが、その事実は忘れてはいけない。

知床半島の付け根を標津へ跨ぎ越し、古多糠を過ぎると国後国道335号だ。
今日はまず、知床半島の東岸をなぞる道道87号の突端まで行ってみたい。
突端にある相泊の集落はへき地好きの心をくすぐって止まず、訪れてみたい場所だった。

羅臼を過ぎると、いよいよ道道へ入る。
舗装が荒れた細い道を予想していたのに、拍子抜けするほどきれいに整備された道を
走ることしばらく、惜しまれながらも2010年に閉校した飛仁帯小学校が現れた。

へき地にあるへき地学校好きとしても、知床半島の中端に位置するこの学校を外すことはできない。

1等級~5等級まで区分されるへき地学校は、等級が上がるほどへき地度も上がる。
地理的には凄い場所にある飛仁帯小学校は、2級校と意外にも穏やかだ。
おそらく、羅臼の中心街に近いことが影響しているのだろう。

取り壊される前に訪問できて良かった・・・。

ちなみに、へき地5級校ともなるとその存在は希少と言ってよく、ほとんどは離島。
離島以外だと、北海道の富村牛小中学校、青森の牛滝小中学校の2校のみで
児童数減少による閉校と等級自体の見直しで、どんどん減少している。

生活至便な地に慣れた身には、なかなか理解しがたい場所にある各校。
へき地教育に、日本の義務教育の根底を見た思いがする。

そんなことを考えているうちに辿り着いてしまった相泊集落。

キケン道なし!

最果て感はそこまでではないけれど、地図で見るとその立地のキケンさは際立つ。

何か動いている気がして脇を流れる川の中を注視すると、なんと鮭が遡上していた。
それも1匹や2匹ではなく、けっこうな数の鮭が川を遡ってゆく。

この先にあるひかりごけ事件の舞台となったペキンノ鼻は、個人的に興味があったが
相泊から道なき道、しかもヒグマ頻出地帯を辿る行程となり、無謀だ。

相泊からの帰りに、満潮時には海中に没してしまう秘湯、セセキ温泉に寄った。

が、すっかり水没中。
そもそも、利用期間は9月中旬(夏季限定)までだった。

セセキ温泉に入れなかったので、羅臼の町外れにある熊の湯へ向かう。
露天風呂には硫黄の香りがする青み掛かったかなり熱めの濁り湯が湛えられ
地元民と、京都から知床ガイドのインターンで来ているという大学生の先客がいた。

バスでウトロから知床峠を越えてきたという大学生を羅臼まで送り、先へ進む。

来た道を戻る形で、標津市街へ入ってきた。
しばらくグーグルの航空写真と睨めっこしながらうろうろし、ようやく辿り着いたJR標津線の根室標津駅跡。

かつての駅構内は、全体が盛土で嵩上げされ大花壇のある公園となっており
外れに遺る線路とターンテーブルだけが、ここが駅だったことを今に伝えている。

見渡す限りの牧草地帯を走る。
次に向かう標津から40kmほど南下したところにある別海町は、牛乳生産日本一の町だ。

目指す店は、そこにある。

ドライブインロマン

どうですか。こういうセンスに極端に弱いんです。

看板メニューであるポークチャップ700g(2100円)は、焼き上がるまで40分掛かる。
なので、30分ほど前に電話で予約を入れておいた。
待つこと数分、出てきたポークチャップの塊感に息を飲む。

恐る恐るナイフを入れると、その厚さが尋常じゃないよ。
厚く切れば角煮に、薄く切ればチャーシューに、そういう厚さだ。
周りはこんがりと香ばしく、中は肉汁がジュッと染み出るジューシーさ。
豚肉と相性ぴったりのケチャップに、危ぶまれた完食をなんとか達成。

ライスも前半戦で尽き、中盤からはチャップさまとサシの勝負となった。

別海からさらに南へ下ると。奥行臼という場所がある。
ここには北海道独特の交通制度であった駅逓、奥行臼駅逓が現存している。

駅逓とは、北海道において開拓時代に辺地での交通補助手段として用いられた制度で
人馬、宿泊、郵便と、言ってみれば旅人を運ぶ馬車の駅(ターミナル)のようなもので
全盛期には全道で200箇所もの駅逓所があり、それらが相互に人と物を運んでいた。

開拓が進み鉄道が敷設されるようになると、駅逓所も徐々にその存在意義を無くし
昭和の初めには、鉄道駅に取って代わられる形で駅逓制度自体が廃止された。

そして奥行臼駅逓のすぐそばに、駅逓に代わって置かれた標津線の奥行臼駅が
こちらも時代に流れに逆らうことはできず、平成元年に廃止となり遺っている。

この駅は現役当時の状態で別海町が管理しており
今にもキハが走ってきそうなその保存状態には頭が下がる。

こんなに居心地がいい廃駅は他にないな。
ホームに腰掛けてぼーっとしたり、レールを歩いてみたり。

結局、1時間以上ここに滞在していた。

奥行臼駅で時間を潰し過ぎたせいで、本日ラストの目的地が危うくなった。
野付半島の先端近く、トドマツが立ち枯れたトドワラがその場所だ。
野付半島は日本最大の砂嘴であり、海流や波などで運ばれた砂が浅瀬に堆積してできる独特の地形をしている。

トドワラ手前にある立ち枯れたミズナラの林、ナラワラ

半島の付け根からは先端近くまで道道950号が延びるが、入口で既に日が暮れ始めた。
この時間になると道を走る車も皆無で、半島のこの先にもおそらく誰もいない。
おまけに風が強く、車から出ると海風がびゅーびゅーと吹き付ける。

ちょっと恐いです。

先へ進もうか止めようか悩んだ末、せっかく来たのだからと前進。
車だったので何とか進む決断をしたが、バイクだったら無理だった。

写真は、トドワラ手前にある立ち枯れたミズナラの林、ナラワラ。
林立した白い木々が夜の闇に浮かび上がり、不気味だ。

トドワラのネイチャーセンターに辿り着いた。

写真の真ん中、海の向こうに写ってるのがトドワラらしいんだけど
トドワラって車を停めてから片道15分ほど原野を歩かなきゃならないのね

どんどん暗くなってゆく強風の中をひとりで向かうのは、

ごめんなさい、無理です。

この半島、狭い所だと数10メートルの幅しかなく、道路の両側はすぐ海というとんでもない立地。
夜は海風と低く轟く海鳴りで本当に恐怖だった。

標津の町の灯りが見えてきた時の安心感と言ったら!
今夜は標津川温泉ぷるけの館に宿をとり、明日また再チャレンジすればいいよ。

ポークチャップがまだおなかに残っていたけれど、宿近くにあるお食事処あけみへ繰り出す。
どうやら寿司屋のようだったが、敢えて味噌ラーメンをオーダー。

この味噌ラーメンが絶品!

思わず主人に「美味しくて驚きました」と伝えると「本土とは一味違うでしょ?」とニヤリ。

2020年現在、飛仁帯小学校は取り壊され、石碑を残すだけとなっています。

  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする